第1部 結 婚 史
(日本結婚史)



4 鎌倉・室町時代
 上代以来の一夫多妻の慣習は中世でも行なわれた。鎌倉時代には三妻まで持つことが許されていた。婚姻年齢については規定がなかったが、上流の間では、早婚が行なわれていた。婚姻には、許婚(婚約)と嫁取りの2段の形式を踏んだ。公家の間では上代以来の婿取り婚が行なわれていたが、平安時代の半ば以来、武士の間で女が男の家に入る嫁迎え婚が行なわれるようになった。元来武士の生活は素朴・質素を信条として武士は同格の相手を求めるのであるが、結婚したからといって自分の土地を離れる訳にはいかないので、自然と女が男の家に入るようになった。しかし公家では伝統的に婿取り婚であるので、公家と武士の間での結婚では問題が生じたが、武家が力を占めるようになると、公武からなる嫁入りが行われるようになった。

礼法の確立
 1338年、足利氏が京都に室町幕府を樹立したが、将軍の権威はふるわず下剋上の機運が広がっていた。そうした状況のなかで、幕府は乱世を安定させる方策として、国民に道徳心を呼び起こし、礼法の普及に努め、自ら進んでその範を示そうとした。当時名門の間では各種の礼法が伝わっており、そのなかでも小笠原家と伊勢家が有力な存在であった。伊勢氏は平氏の末流で大永年間(1521〜26)に礼道の本、「宗五大草紙」を著し、また 「嫁入記」などを示して室町時代の婚礼式の基本を定めた。一方弓馬の師範であった小笠原家では、鉄砲が戦術に大きな役割を持つようになると、礼法全般を指導するようになった。
 この時代の礼法の特徴は、禅宗の文化様式の影響を受けて、建物も書院造りとなり、床の間も作られるようになった。これにあわせて、「礼法」も玄関での作法、案内の作法、床の間の飾り方、また婚礼作法にも細かな規定が加えられた。

嫁入り次第
 平安時代、公家では牛車を用いたが、武家社会では輿を使い、輿を連ねての嫁入り道中が行われるようになる。当時の武家の嫁入は、まず嫁の家の門の外では松の木を焚いて門火を行った。嫁は多産のシンボルである犬張子の箱を2つ置きその間に座り、輿に乗って門を出た。花嫁の輿が婿の家に着くと、ここでも門火を焚き、輿が門に入るときに、「請取渡し」の儀が行われる。ついで「輿寄」の儀式があり、それがすむと花嫁は輿から出て祝言の間に進む。祝言の間は、家の中で最も奥の庭に面した所で、嫁は床の上座に座る。次に婿が座につくと、待上臈(大臣の女)は祝儀の言葉をのべて両人を合わす。まず最初の祝儀は、「式三献」と呼ぶ酒式から始められる。この時各人に御膳が三つずつ置かれ、そこに盃が3つ添えられている。女房(貴人の家に仕える女)3人が出て、嫁より盃を始め、婿、待上臈と3人が3度ずつつぐのである。式三献のあと、初献、雑煮が出る。これは夫婦だけの宴で、父母、兄弟は立ち会わない。こうして祝言が終了すると、いよいよ床入となる。さて「色直し」の衣裳は婿の方から土産に出されるもので、二日目の夜に赤や青の衣裳を着ることになるが、それまでは男女とも白の衣裳を着る。そして嫁は色直しがすんだあとで、初めて舅、姑と対面した。

5 安土桃山時代
 この時代は織田信長が天下統一の事業を開始し,豊臣秀吉が関白太政大臣となって、京都を復興させた時代である。当時、有力な武家の婚礼は盛大に行われた。武家の嫁入り当時の武家の婚礼の様子は次のように行われた。吉日を選んで嫁入りが行われるが、嫁入り前に嫁迎えの儀があった。これには婿側から選ばれた2人が騎馬で先方に迎えの口上を述べに行く。このとき、嫁側では引出物に服巻(鎧)一領、太刀一振、馬一疋が贈られる。花嫁が出立するに先だって、父母に三々九度の盃があり、出門のときには門火を焚いて送り出した。さて行列式は、末の役人まで輿に乗って出発した。次に婿方の家では門火を焚いて到着を待った。嫁は門を入り、座敷に輿を入れると、女房は輿をかついで、二の間、三の間まで担ぎ入れて輿寄せの儀式を行う。嫁が輿から出ると、婿方の待女房、中臈(女官)が脂燭に点火して迎えて祝言の座敷へと導いた。さていよいよ夫婦の盃である「式三献」が始まる。二日目も三日目も同じように式三献を行う。盃は二日目は婿から始められ、三日目には「色直し」といって、白装束を脱ぎ、色物に衣裳に着替える。そしてこのあとに、婿方の一家で、初めての挨拶が行われた。

6 江戸時代
 江戸時代は、長幼の序列や身分制度の確立など秩序の維持に力が注がれた。また倹約も推奨されたため、豪華な婚礼は影をひそめ、「女大学」など女の道が説かれた。この時期の婚礼に「仲人」が登場してきた。この仲人の存在が普及するにつれて、またそれをなりわいとする者も生まれた。当時の婚礼は、宮中では依然伝統的な平安朝式が採用され、一般大衆は武家様式にならい、そのなかでも小笠原流が主流となった。

武家・民間の婚礼
 武家・民間の婚礼をみてみると、初めに仲人の斡旋で「見合」が行われる。仲人が斡旋して双方に異議がなければ、吉日を占って婿方から嫁方の家族と雇人へ、結納品が目録を添えて贈られた。この結納は「たのみ」あるいは「言納(いいいれ)」といったのを「結納」としたものといわれる。婿側の使者は、最初は家老などの役で、裃姿で下僕を伴って行った。嫁方はその使を食事でもてなし、引出物を贈った。
 婚礼は吉日を選び夜間に行われた。婿方は祝言の床の間に白絹を敷き、同じ生地の水引をかけ、奈良蓬莱、二重台、手掛台、置鳥、置鯉、三盃、銚子、提子を飾り、他の居間、寝所にも飾付けを行った。
 いよいよ嫁の門出となると、嫁方は兄弟家臣等が従い、嫁は輿あるいは乗物で出発した。行列に荷物の列が従った。荷物には、三棚、文房具、化粧道具、茶、花、香道具、料理道具、裁縫道具、坐臥具、火鉢、茶道具などの家具、および被服などで、箪笥、長持、釣台にのせて運ばれた。嫁の乗物には犬張子、守刀などが入れられた。一方婿方は門前に門火を焚いて待ち、門の中では出入りの男女が餅をついた。餅つきは男女の交わりを意味するものという。さて嫁方から二人の貝桶持ちがまず貝桶を渡し、このあと嫁は輿ごとかつぎ入れられる。祝言の間に嫁が通ると、いよいよ婚礼式となる。嫁は先に着坐し、次に婿が座る。そして式三献となる。三々九度の盃は古くは嫁が先であったが、この時代から婿が先となった。また盃の前に肴が出た。次に色直しとなって、婿から嫁へ色直しの衣裳を贈り、嫁は白装束を脱いで色のある衣裳と着替え、婿も嫁方より贈られた、直垂、大紋、素襖あるいはは長裃から裃半袴となり饗 膳となる。メニューは初めに雑煮が出て酒も燗酒,塗盃で宴を行い,十二組の菓子が出る。この宴会でもやはり、夫婦が中心で両家の親族は加わらなかった。


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