第1部 結 婚 史
(日本結婚史)


7 明治・大正時代
 明治3年(1870)11月、縁組規則が制定され、華族は太政官に、士族以下は管轄府県へ願い出るようになった。翌4年に戸籍法が定められ、8月には華族から平民に至るまで通婚が許されるようになった。
明治4年ごろから政府はいわゆるチョンマゲを切って洋風の散髪を励行させた。婦人の髪形は江戸時代末期のままであったが、明治18年に束髪ひろめの会が出来普及していった。
 明治民法では、婚姻年令を男子17歳、女子15歳以上としているが、一般の結婚年令はおよそ男子が22才、女子が20才であった。妻の氏名については、昔からの慣習に従って、婚姻後実家の氏を称すものとされた。しかし夫の家を相続したときには、夫の氏を称すことが必要であったし、次第に夫の姓に変えるようになった。

大正天皇の結婚
 明治33年5月、皇太子嘉仁親王(大正天皇)と公爵九条通孝の四女節子との結婚により、結婚式に対する社会的関心が高まった。政府は結婚式にそなえて、前年8月より帝室制度調査局を設けて、皇室の結婚に関する儀礼制定に向けて調査を開始した。そして婚礼のーカ月前の明治33年4月に「皇室婚嫁令」を公布している。宮中の婚儀も皇室婚嫁令で定められているが、大正になっても古来の消息使、三ケ夜餅などの儀が採用されていた。この中心となる所は賢所の大前で、古式服による三々九度に代る御祭文朗読とお盃の儀式があり、ついで朝見の儀、即ち両陛下に初の謁見をする儀式である。

民間の結婚式
 民間の儀礼の中心は何といっても婚礼であるが、明治時代には皆自宅で、古式に則って行なっていた。明治30年7月21日、東京日比谷大神宮の拝殿で初めて高木兼寛男爵媒酌の神前結婚式が行われて以来、その影響で一般にも神前結婚式が挙げられるようになった。日比谷大神宮の費用は、特別一等が人員35人以内で50円、同2等が30人以内で35円、3等が30人以内で25円、松が25人以内で20円、竹が20人以内で15円、梅が10人以内で12円であった。当日は親族、媒酌人、および知人などが臨席して神前の式に臨んだ。仏教での仏前結婚が始まったのは、明治26年春、真宗本願寺派の藤井宣正が、東京白蓮社会堂で仏式結婚を行ったのが初めとされている。(日置昌一『ものしり事典」)

大正時代の結婚式
 大正時代になると、娯楽施設も増え、喫茶店の女給も洋服を着るようになった。自由恋愛も盛んとなり結婚式は簡略化されていった。式は神前結婚が多く、自宅結婚は減っていった。宴会は料理屋かホテルで行うようになり、新婚旅行も一般化していった。大正12年9月、関東大震災が起き、その影響で日比谷大神宮が焼失した。そのため神社で行われていた結婚式が不可能となり、帝国ホテルでは、多賀神社の御祭神である伊邪那岐命、伊邪那美命の2神の御分霊を同ホテル内に安置した。これがホテル結婚式のはしりといえよう。参考までにホテルオークラは出雲大社、ホテルニューオータニ:出雲大社・東京大神宮、京王プラザホテル:熊野神社、パレスホテル:出雲大社、東京ヒルトンホテル=山王日枝神社がそれぞれ祀られている。

8 昭和から平成に

結婚相談所の設立
 『東京都結婚相談所50年の歩み』 によると、昭和8年4月に公営では全国初の東京結婚相談所が作られ、同年6月に日本橋区の市営食堂の2階で業務を開始した。最初の1年間の申込者は男性554人、女性812人で、結婚が成立したのは45組だった。この組織はやがて厚生省にも注目され、昭和16年には、東京市結婚相談所に昇格する。

総合結婚式場の誕生
 昭和6年、目黒に本格的な神殿を常設した雅叙園が完成した。美容、写真、衣裳などの施設を整えた総合結婚式場の先駆けとなった。昭和15年、日中事変が起こると婚礼も質素に行うのが風潮となった。「花婿は国民服に戦闘帽、紫の儀礼章を胸に掛け、花嫁といえば上っ張りにモンべ姿で、東西に2人が差し向かいに整列すると、媒酌人も同じ姿で現われたという」(江馬務 「結婚の歴史」より)

戦後の復興
 昭和22年11月、結婚式場「明治記念館」が誕生。総合結婚式場というネーミングをつけ、その後の結婚式場のモデル的存在となった。翌23年(1948)1月1日より施行された新民法により、結婚の成立要件は、当事者間に結婚の意思があること(民法742-1)、結婚年令は男子18才以上、女子は16才以上(民法731)などが決められた。

互助会の誕生
 昭和23年8月、横須賀冠婚葬祭互助会が誕生した。
これは戦前からあった隣組組織や地域の相互扶助組織が行ってきた助け合い活動を復活させたもので、戦後の物資・食料の欠乏のなかで、冠婚葬祭の伝統を続けていきたいという願いから生まれた。昭和28年7月には、「日本経済新聞」は冠婚葬祭互助会の活動を次のように取り上げている。それによると、「会のネライ。つまり会の組織は一種の保険みたいなもので…入会して満6ケ月すると効力が発生し、冠婚、葬祭どちらでも一度は2,400円か、1,800円の範囲内でやってもらえ、その後は満期になるまで積立てる。」と互助会の概要を伝えた。

人前結婚のブーム
 戦時中は神前結婚を奨励する風潮が強かったが、戦後民主化運動が高まり、人前結婚という形式が産み出された。東京都は昭和26年から「新宿生活館」を設置し、そこで結婚相談所と同時に結婚式も行なった。この結婚式は人前式で、館長が司会を務める簡素なものであった。こうした結婚式は評判をよび、一時は行列を作るほどの盛況であった。地方でも各地に公民館が設置され、そこで簡素な結婚式が営まれた。

直営結婚式場の登場
 昭和30年を境に、わが国の婚姻数が急上昇し、それにともなって30年代前半に、互助会直営の総合結婚式場が登場した。昭和32年10月には、横須賀市冠婚葬祭互助会が汐入町に「長寿閣」をオーブン、33年1月には、愛知県冠婚葬祭互助会直営の「高砂殿」が名古屋市東区にオープンした。また36年9月、名古屋市冠婚葬祭互助会直営の総合結婚式場「平安閣」が、さらに38年10月、京都市冠婚葬祭互助会センターでは「玉姫殿」をオーブンさせている。

皇太子明仁親王の結婚

 昭和34年(1959)4月10日午前10時すぎ、皇居賢所で皇太子明仁親王(25)と正田美智子さん(24)の結婚の儀がとり行われた。午後2時30分、皇居から渋谷常磐松の東宮仮御所まで8.9キロ、皇太子夫妻を乗せた6頭立て馬車を中心としたパレードが出発した。賢所での模様とパレードはテレビの実況中継で報道され、結婚のパフォーマンス性が若い男女に新鮮な感動を与えた。
 ご結婚を祝う宮中の祝宴は、4月13日から15日までの3日間行われた。招待されたのは皇族をはじめ国会議員、民間代表など全部で3,059名。祝宴の献立は日本料理と日本酒で一人前千円程度。招待客への引出物は、菊の紋章の入った銀製のボンボン入れと銅製の文鎮。この披露宴の費用はしめて1,300万円という。

空前の豪華披露宴
 昭和35年12月2日、東京日比谷の日活国際ホテルで、俳優の石原裕次郎と北原三枝が結婚式を挙げた。午後6時より披露宴にうつり、400名の招待客に詰めかけた報道陣は120社、240名で、会場のシルバー・ルームはごったがえした。
 新郎は黒のモーニング。新婦は角かくしに、金襴緞子という純日本風花嫁衣裳。メインテーブルの左には、3日がかりで作られたという高さ1メートルのウェディング・ケーキ(時価7万円)、150キロのシャチホコをデザインした氷柱一対が飾られた。メニューは1人前6,000円の予算、400人分で240万円という豪華さで話題を独占した。(「週刊平凡」35.12.14号)

オリンピック以後の会館での挙式
 昭和38年 (1963)には、東京オリンピックをあて込んだホテルの建設ラッシュが続いた。昭和37年まで少しずつ伸びを見せていた式場の数が、ここに来て急激に跳ね上がり、以後毎年多くの式場がオープンした。この時期の特徴として、結婚式場の普及とともに、神前結婚式も普及してきたことがあげられる。
これまで結婚式は簡素に行なわれてきたが、日本の景気が上昇を続けるなかで、結婚式も徐々に派手になっていった。

スターの結婚式
 昭和46年1月26日、歌手の橋幸夫が帝国ホテル内の神前結婚式場で挙式を行った。そのあとの披露宴の模様を当時の 「女性セブン」は次のように報じている。「記者会見のあと12時25分に孔雀の間に入った。この日、橋、緒方両家の招待客は1000人余り。(中略)披露宴は、1時から玉置宏の司会ではじまった。」媒酌人の型どおりのあいさつ,主賓の祝辞のあと,ケーキカットであるが,そのとき部屋の明りが一斉に消え,それと同時に中央のドアから19人の子供たちが手に手にローソクを持って,場内の各テーブルに火を点じていった。そのあとスポットライトが,4メートルのウェディングケーキを浮かび上がらせた。披露宴の予算は1人2万円。衣裳などを含めると総額5,000万円となる。新婚旅行はハワイ,そのあとロスアンジェルス,アカプルコへ出発した。

全日本冠婚葬祭互助協会発足
 昭和46年9月,「全日本冠婚葬祭互助会連盟」,「全日本新生活互助連盟」,「日本冠婚葬祭新生活推進連合会」の3団体が,窓口一本化を目指して組織した「(社)全日本冠婚葬祭互助協会」が発足した。

ニュービジネス懇談会発足
 平成4年12月,(社)全日本冠婚葬祭互助協会は,「ニュービジネス懇談会」を発足。冠婚葬祭互助会を総合的儀式産業(生活文化創造型産業)へと発展させるため,望ましい方向,振興方策について検討するための学識経験者,消費者代表等で構成する懇談会を設置した。


上代(平安まで) 中世(鎌倉〜) 江戸時代 明治・大正 昭和・平成
形式 婿取り婚 武士の間で嫁迎え婚が行われる 嫁入り婚の定着 大正より自由恋愛結婚が流行となる 出合いのビジネス化。結婚式の多様化
儀式 貴族の礼法 武家の礼法が誕生 庶民の婚礼は武家の礼法が採用される 神式,仏式結婚式の登場 結婚式場での結婚式が普及
特色 嫁の家で婚礼を行い,そこで生活する 床の間飾りなど,細かく規定 仲人の斡旋で見合が行われた 一般には自宅での結婚式が多かった 披露宴のショー化
結婚年令 男子15才女子13才 −−− −−− 男子17才女子15才 男子18才女子16才


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