第1部 結 婚 史 (日本結婚史)



 日本の婚姻の形式は、「婿入婚」つまり、新郎が嫁の家に入りそこに住まうことが基本的なものであった。この形式は貴族社会を中心にして伝統的に行われてきたのであるが、鎌倉時代に入り武士の勢力が顕著になってくるに従って、「嫁入婚」 に変わっていった。またこの時代には武家のための儀礼が確立され、現代まで残されている作法の原点となっている。
 江戸時代に入ると、裕福な町人階級が武家の結婚風俗を手本に、華やかな婚礼が行われた。明治時代には、西洋の文明開化思想の影響が結婚儀礼のなかにも反映し、人前結婚など宗教色のない婚礼が、神前結婚と並んで普及していった。

1 古代
 日本人の祖先は性に対しては割合に開放的で、男女間の交際は大変におおらかであった。いわゆる乱婚とか雑婚という状態が長々と続いた。これは日本に仏教や儒教などの道徳規範が到来していなかったことが理由の一つである。また掠奪結婚というのもあり、相手を肩に担いで連れ去るので、俗に「かたげ」といった。それが一変すると、購買結婚といって娘を米俵、牛などで買うこととなり、これも後世までも残っていた。贈与結婚というのは娘を高貴の方に献ずることで、中古の采女という陪膳の女官はこれであった。結婚方式では同意結婚、即ち男女ともに合意の上で結婚するものが穏当であるが、わが国でも太古から貴族の間にはこれが行われていたようである。

神話の中の結婚
「古事記」によると、イザナギ・イザナミはオノゴロ島の八尋殿の神聖な御柱を旋って結婚している。この時女神が先に言あげ(発言)をして「あなにやし、えをとこを」(あなたはよい男だ)といい、男神はあとで同様の事を言ったが、これがわざわいして不具の蛭子が生れたので、今度は男神が先に言あげして、淡路島と四国とを生んだ。我国の礼儀は男性を先とし、女性をあとにすることは、遠くここに起原を求めることが出来る。男子が適当な娘を見初めれば直接申し込むか、その父兄に申し込む。あるいは臣下を娘の家へやって申し込むこともある。婚姻の場合は、まず男が妻となる女性を求めたが、これを「つままぎ」といった。そして結婚の申込を「つまどひ」といった。こうしたつまどひに対して、女性が承諾するとここに婚約が成立する。男女の出合いの場には、五穀豊饒を祈ったり、また取り入れの祭礼に、男女が歌い踊る歌垣というものがあった。ここで男女が歌を歌い合って、求婚の機会とした。 申し込まれた娘は父兄に身のふり方につて相談して、もし異存がなければ、即座に縁談が成立し、婿になる人は娘の家で挙式するのである。そして男はある期間同家に通い、後に家居を建ててここに同棲することになる。男子は早婚であったが、妻のない人は「妻まぎの旅」といって妻を求めて旅をした。かの大国主の兄弟八十神が妻まぎの旅に出るので、大国主は袋を持って従ったことが伝説に残されている。

2 飛鳥・奈良時代
 飛鳥・奈良朝になって儀式に唐の習慣が取り入れられるようになった。結婚式は戸令(民法)によれば、唐にならって男子15歳、女子13歳で許され、その他、皇族と臣下との通婚を禁じること。父母及び夫の喪のある間は、嫁取りを禁ずること。掠奪あるいは売買による婚姻を禁じることなどが規定されている。
 この時代にはいると、婚礼には媒酌人というものが定められた。男子から媒酌人を女子の父母、祖父母などに申し入れて承諾を得た話がまとまれば、男子側から進物を女子へ贈った。媒酌にあたって必要なことは納采(結納)であった。これは中国から入ってきた風習であった。また当時婚礼の日取りは吉凶を占って決めていたことがわかる。皇室は妃が入内(内裏に参入)し、一般では新婦の父母が吉日を選んで、新郎を家に招き夫婦のかためをしたようである。貴族の間では一夫多妻の習慣があり、最初にめとった妻を「こなみ」と呼び、正妻の地位を占め、その他は「うわなり(後妻)」と称せられた。律令の母体である唐律令では、重婚を禁じていたが、日本では第2夫人以下は「うわなり」と呼ぶことで解決していた。

3 平安時代
 平安時代に行われたのは公家式結婚である。当時、貴族の子女は幼小のころに婚約することが行われていた。後一条天皇(1008〜1036)は11歳の時、20歳の藤原威子の入内があった。双方の婚約が行われると、婿側から「消息便」が立った。この使いは「文使」ともいい、婿から嫁に対する恋文であった。この文は、柳の枝に吊して嫁方へ持っていき、女性の代わりに、その父兄が相手の人物、家柄などを確かめて返書を送った。「栄花物語」にある藤原長家の歌に、夕ぐれは待遠にのみ思ほへていかで心のまづはゆくらむ(意訳/婚姻の夜が待ち遠しくてたまらない。どうしたら心だけでも先に行くことができるだろうか)
というものであった。使いが先方に着くと、上座に招き入れ、「三献の儀」の接待があって、祝儀に衣服などが贈られた。婿の家では吉日をえらび、夜に向けて出立の準備がなされた。夜になってから従者を連れて嫁の家に向かった。

公家婚礼
 婿は布袴(束帯につぐ礼装)、衣冠という宮廷衣服を身に付けて車か馬に乗り、松明を先に家司(職員)などをつれて、新婦の家へ行く。この時には家族は同行しない。到着すると婿は門前で車あるいは馬から下り、案内によって寝殿廂の母屋のとばりの前に坐る。そのあと婿はとばりの中に入って新婦と会い、装束を脱いで共寝をする。この時三日夜餅(みかよのもち)を銀盤に盛って出される。これは婚姻の日から3日間供進することから出た名前である。これを3つずつ食べた後で再び帳外に出て、婦家から贈られた衣服を着て饗膳につく。ここで酒を酌み、真の床入となる。そして3日間、同じ儀式をくり返すのである。そのあとで露顕(ところあらわし)、今でいう結婚披露を行い、婿と舅の対面式を行い、酒を酌みかわした。婿は結婚後吉日を選んで、妻の家から出仕した。

宴会の作法
 日本の古い習慣では、宴会は非常に厳格な作法があり、酒宴でも客が席に着いたところでただちに酒が出るのではなく、はじめに高坏にもてなしの料理を載せ全員に運び終わると、次に酌人が上席から酒をついでまわり、これを「一献」という。次に第二台の料理である。そして同じように酒をつぐと「二献」が終わる。ついで「三献」が始まって座を閉じ、正式の宴は終わる。この三日間は、殿中の燈篭、灯台の明かりは消さないのが吉例で、宮廷民間ともにそうであった。



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