西洋結婚史



1節 西洋婚礼史
 西洋における婚姻制度は、ギリシア、ローマ、ヘブライ、およびキリスト教の伝統を主流として長年にわたって発展してきた。
 キリスト教的な婚姻の形態が生れる直前まで、ユダヤ人やゲルマン人は、初期のギリシア・ローマ人と同じく、父系首長の統率する親族集団支配の社会で、すべての個人が父系首長の支配する氏族に所属し、首長の指示に従って婚姻が行われた。

父系首長支配下の婚姻
 女性は婚姻によって属する氏族から離れ、夫の氏族へ入った。女性は氏族の首長の了解なしにその氏族から離れることはできず、男性は首長の許可なくして妻をめとることはできなかった。かくて婚姻は当事者間の出来事ではなく、それぞれの首長間の取引であった。また首長は氏族の成員を追放出来る権力をもっていたから、自分の妻、息子の妻、その他あらゆる成員の妻を放逐することができた。
 ところで、バビロンの捕囚(前6世紀)以後のユダヤ人の間では、もはや氏族による婚姻の統制はなかった。しかし、妻を追放しうるという考えは存続し、律法の一部として不変のものとなった。イエスの時代になっても、この「律法」により、婚姻はいつでも夫から一方的に終結することができた。
 しかし、ギリシア人、特にローマ人の間では、急激な変化が起った。初期ローマでは、婚姻は当事者が儀式を行うことによって結ばれていた。しかし、のちの共和制の時代からは、儀式をしなくても婚姻を開始することができるようになった。むろん、婚姻のように重大な行事には、宗教的な祝典とか家族の祝宴を伴った。しかし、正当な婚姻関係そのものは、単に相互に夫婦となる意思をもつ当時者が同棲を開始することによって成立したのである。さらにこの自由な結合は、その開始と同様に当事者のどちらからでも自由に終結させることができた。

古代ギリシャの結婚
 古代ギリシャの結婚式は、主に冬に行われた。結婚の神であるゼウスとへラに生贄を捧げる前に、新郎新婦は聖なる泉で水を浴びた。そして花嫁の家で親類、友人などが集り、儀式のあとに宴会が行われた。花婿は白の衣装、嫁は色もの衣装を着用し、顔にヴェールをかけた。宴会が終わり夜になると、花嫁は花婿への家へ行列をした。花婿も牛にひかせた車に乗って行列に加わった。行列の参加者は手に手に松明を持ち、花嫁の付添いは婚礼の歌を歌った。家の入口では花婿の母親が行列を待ちうけ、そして人々は二人の部屋に麦をまき、花婿の母親は装飾された新婚の部屋に二人を導いた。客が帰ると花嫁はヴェールをとって花婿の前に姿を現わすのである。

古代ローマ人の結婚
 古代ローマはギリシャの結婚とほぼ同じである。まず結婚に先だって婚約式が行われる。婚約式には2人の両親や親族が招かれ証人となった。さて結婚式になると、花嫁は前夜から結婚衣装を身に付ける。そして当日花嫁は家族と共に家の前で花婿とその家族を迎えるのである。そして神殿か家の中庭に行き、そこで動物の生贄をささげ、結婚の誓いを行う。誓約のあと、宴会が夜まで行われて、そのあと松明に先導されて婚礼の行列が新郎の家に向かうのである。当時、ギリシア人とギリシア化されたアジア人は、多かれ少なかれローマ人、・ゲルマン人、その他ローマ化された人々と同様、婚姻は自由に開始され、また当事者のどちらからでも、任意のときに定まった形式もなく離婚することができた。

キリスト教と婚姻
 古代に広く行き渡っていた婚姻の形式は、キリスト教によって大きく変化した。ヨーロッパでは、紀元1世紀ころからキリスト教は、信者に婚姻に際して、神の祝福を与えていたようであるが、婚姻そのものはローマ式に行われていた。4世紀になると教会の力が強くなり、婚礼は従来通り行われたが、翌日教会でミサを受けるようになった。10世紀には教会の前で神父によって行われ、そのあと会堂に入ってミサを受ける形となった。キリスト教の伝統では、婚姻関係は一夫一婦であり、死ぬまで共同生活と結びつき、かつ貞操の義務がかせられていた。婚姻は秘跡であるという教義により、結婚そのものが宗教的儀礼となった。そして婚姻により、夫婦おのおのが神に対して責任をもつようになり、離婚することは許されなくなった。中世の教会が、婚姻を含む一切の秘跡に関する問題を決定しうるのは宗教裁判所だけであった。たとえば遺産請求の判決を下すために婚姻の存否を決める必要がある場合でも、宗教裁判所の決定が必要だった。

中世の婚姻
 中世を通じて、婚姻の管理は宗教的権威の任務と考えられていた。教会は、婚姻のような宗教的意義をもつ行為は、教会の祝福が必要であると要求した。そこで結婚する本人たちは教会に集まり、そこで司祭の祝福を受けることが慣習となった。しかし婚姻締結そのものは当事者間の私的契約として残った。この婚姻の合意は、それに続く肉体的結合により秘跡にまで高められ、かくて婚姻は不解消のものとなる。これは1917年制定の教会法に基づき、今日もなおローマ・カトリック教会の法として定められている。教会の扉のところで司祭の祝福を受ける慣習は、その後宗教的義務として確立された。その正式決定は、1215年の第4回ラテラノ公会議で発布された。しかしこの布告に対する違反は、教会からの懲戒と処罰をもたらしただけで、婚姻そのものを無効にするものではなかった。

14世紀の結婚
 若者と家族が結婚に同意すると、婚約式がとり行われた。それは指輪の交換によって確認された。指輪は2つ用意され、婚約者は互に相手の指輪を受けとった。これは単なる指輪の交換ではなく、法的効力をもった。
 契約の監視人である教会は、典礼定式書に従って婚約を公にする役割をもった。婚約者である二人は、両親、友人とともに教会に行き、戸口で主任司祭の前で婚約を誓った。そして40日の間「婚姻」を公示したあと、その教会の戸口で結婚式が行われ、そのあと教会の中でミサが行われた。

プロテスタント主義の影響
1563年のトリエント公会議で、婚姻の有効性の必須条件として、結婚式は主任司祭ないし教区司教により、また最低2名の証人を必要とするという決定が下された。かくして、無式結婚も内密婚も不可能となった。しかしこの教会法の宣告が適用された地域は、ローマ教会に忠誠を捧げる範囲に限られた。
 16世紀の宗教改革により、婚姻を民事的な契約であるという考え方が強くなった。この影響を受け、イギリスではクロンウェル治下に出された民事婚条例(1653)で、婚姻する男女が判事の前で誓うことで法的に有効となった。その後変転をみたが、1753年の婚姻法改正によって、婚姻が有効であるためには、婚姻予告の公示を行い、その後にイギリス国教会の司式規則にのっとった儀式を行うことが必要になった。

近代の結婚
 17世紀までのヨーロッパの国々にとって、婚姻は明らかに宗教的な出来事であった。しかしイギリスでは、1836年の「婚姻法」によって聖職者でない登録官の面前でも行われるようになった。だがこれにより、当事者は特定の事項を記載した通知書を提出し、登録官の面前で宣誓するのであるが、教会での宣誓とは違い、登録官事務所の挙式では「汝を妻とする」と述べるだけである。ただし統合婚姻法(1949)により、イギリス国教会で挙式する場合には、「事前に婚姻予告の公表をしなければならない」など伝統的な規定がある。
 イギリス植民地であったアメリカでは、コモン・ロー婚、つまり両当事者の合意だけで成立する無式婚姻であった。コモン・ロー婚はイギリスで1753年禁止されたことがあるが、植民地であるアメリカには適用されなかった。1776年アメリカが独立して以来、婚姻は民事契約とする考え方が一般的で、今日ではアメリカのほとんどの州で、このような法令が制定されている。合衆国では一般に、結婚式を挙げた州の法律に従っていれば、住所地の法律と違っていても婚姻の効力は有効とされる。
 ヨーロッパでの「民事婚」の確立は、フランス革命によるものであり、1791年の革命憲法には「法律は婚姻を民事契約とのみ認める」と宣言された。そこでは、聖職者でない市長、村長の面前で行われる儀式以外に有効な婚姻はないものとされ、民事婚が義務づけられたのである。民事婚の義務は、その後フランスからヨーロッパの他の国々へと広がっていった。


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